真説「陽明学」入門―黄金の国の人間学
最終更新: 2020年9月29日

≪著者≫
林田 明大
≪問い≫
何を正しいと信じ、行動するか
≪概要≫
通説に惑わされないで、あるがままのものを、あるがままに見ようとしたときに見えてきた陽明学とは、仏陀やキリストや、近年ではゲーテ、ルドルフ・シュタイナーやインドの思想家クリシュナムルティの教えやニュー・サイエンスの思想に共通する、より良く生きていくための、不安や葛藤から自らを開放するための、修行法や心構えをシンプルに説いた人間学なのであった。
何故人は悩み苦しむのか、また死ぬほどの苦痛を味わいながらも、なぜ生きなければならないのか、こちらに非は無くても突然、交通事故のように向こうからくる苦難には、いったいどんな意味があるのか、失敗の連続のように思える人生に、いったいどんな意味があるというのか、生きることの意味は、そして死ぬことの意味とは...。
1. 心即理
心はすなわち万事万物の理であり、心と万事場物は一体である。心の中に宇宙の根源的な原理が含まれていて、心の内と外に対立はない、と主張しているのである。この心が私欲に覆われていない状態が、すなわち天理(人為でない正しい天の正しい道理)そのものなのです。
知識や情報を増やすことよりも、心の歪みをなくすことや我欲を減らす努力が、心の中に生じるさまざまな葛藤を無くし、本来心に備わっている無限のパワーを回復して人間性を高める唯一の手段であることを、陽明は悟ったのである。また、本心から納得した教えや規範、価値観でない限り、自分の判断や行動の基準を外に求めることは、自己疎外を引き起こすしかない、と気づいたのであった。
2. 知行合一
知と行は別々のものではない。心と身体は一つのものであり、思いと行動は一つのものだ、という考え方が当然導き出される。心即理でも述べたが、陽明学とは心と理、心と身体は対立する二つの物でなく、じつは一つのものである、という世界観なのである。
決してこれは、知的変調の風潮に対する法弁論でも、体験主義、実践強調論でもない。「知」というのは行いの始めである。「行」というのは「知」の完成である。知から始まるとすれば、行は知の完成、そしてこれは行の始めが知だから、知というものは循環するわけです。本当に知れば知るほどそれは立派な行いになってくる。知が深くなれば行いがまた尊くなる、というふうに循環する。本来心と身体は一体で、二つに分けることができない、というのが主張なのだ。
3. 致良知
心の内の理をただし、良知を完全に実現する、という体得重視の道である。良知とは是非善悪を知る能力のことであり、「仁・義・礼・智」の四つの徳のことである。内面の工夫をして良知に目覚める、気が付くだけではだめで、同時に「致す」という外面の工夫と実践の努力をしなければ、真の「不動心」は養えないのである。
陽明学は思索することより、まずは先に心の陶冶を重視する良知に目覚めることは、主体世確立への第一歩であり、自由への目覚めである。そういう意味で、陽明学とは、自由への哲学であるといえよう。
≪こんな人におすすめ≫
・経営者
体験主義の現代において、知がと身体、理が一体である、という考え方は非常にしっくりくる。確かに頭でっかちな状態は役に立たないが、何も知を得ず行動ばかりする状態を手放しで神格化するのはいかがなものだろうか。そういう論調に違和感のある方は、腹落ちするのではないか。
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